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2000年12月  第5話  蕎麦の顛末

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元禄十五年十二月十五日未明は、大石内蔵助率いる赤穂藩浪士四十七名が、本所松坂町の吉良邸に討ち入り、
吉良上野介を討ち果たし首尾よく本懐を遂げた日である。

その前夜、両国橋向詰の「蕎麦屋楠屋十兵衛」の二階に勢揃いし、「蕎麦は是を打って切るとの縁で喰い」と川柳にあるとおり、縁起を祝って蕎麦を食べた。というのが巷説になっており、毎年義士ゆかりの地では義士祭が催され、お蕎麦が振る舞われるしきたりになっているが、真相は如何なるものであったのでしょうか。

蕎麦屋勢揃い説は、事件の直後その発端から討ち入りまでを詳しく記録されたとされる「泉岳寺書上」に
「両国なる楠屋へ集会致し候」と、まことしやかに書かれていることが根拠になっている。
しかし、浪士たちが蕎麦屋に集合して気勢を上げたというのは、事件の隠密性を考えても巷説の域を出ないのが真相のようである。

「泉岳寺書上」は、かなりでたらめな記述が多く、偽書の一つとされているくらいで、四十七士の一人だったが討ち入りに参加できなかった寺坂吉右衛門が書いた「寺坂信行筆記」では「蕎麦屋へ集まり候も虚説なり」とはっきり否定している。

「寺坂信行筆記」から、史実と考えられる義士討ち入りの集合場所は、本所林町の堀部安兵衛宅、本所横町の杉野十平次宅、本所相生町の前原伊助宅の三カ所が正しく、蕎麦屋ではなかった。寺坂記では、浪士たちは集合前に両国米沢町にあった堀部弥兵衛宅で饗応を受けた後、まだ時間が早いので吉田忠左衛門,原惣右衛門ら六、七人が両国橋の茶屋・亀田屋にて「蕎麦切りなど申し付け、休息後、安兵衛宅へ参り、内蔵助親子などと装束致し候」と記している。この事から、この数人の浪士が集合前に蕎麦切りを食べた話と 、堀部弥兵衛宅での酒宴とが一緒くたになって、「蕎麦屋勢揃い説」が生まれたのが真相ではないだろうか。とは言っても、一部の義士が蕎麦を食べたことは紛れもない事実であり、蕎麦好きで縁起を担ぐ江戸っ子には、「蕎麦屋で勢揃い」する方が喝采を博したに違いないと思われる。

余談であるが、寺坂筆記では、討ち入りは雪降る深夜ではなく、前日の雪は残ってはいたが、晴れて明るい月夜の午前四時との記述もあり、万事歴史の史実はより劇的描写によって語り継がれるものと思う次第であります。
本号にて無事本年も終了、「細く長い」お蕎麦のごときお引き立てを念じ、感謝の意を込め末筆と致します。