2003年3月 第32話 蕎麦に関わる史跡
「そば」と言えば江戸、蕎麦店が繁盛しそばっ喰いが多いこの町には、
おのずとそばに関わる史跡が数多く残っております。
散策にはいい季節となりました、いくつかご紹介してみましょう。
「一休橋」
「一休名残蕎麦」と呼ばれる蕎麦が有ったとされるのがこの一休橋。
場所は文京区関口、現在江戸川橋と呼ばれる一帯です。
江戸川橋から早稲田に向かう方向に広がる公園に架かる1つ目の橋です。
たもとに石碑がございます。江戸から明治に移る頃、遊覧船も浮かぶ花の名所であったこの一帯は、
水車でひいたそば粉で蕎麦を打つ名物蕎麦があり、この名が付いたと言うことです。
現在は高速道路の脇となり当時の風情は薄れ気味。
「石臼塚」
神田川を上って行きますと中野に出ます。
「中野蕎麦」という言葉が業界に残っておりますが、その昔中野は江戸へ出荷されてきた蕎麦の集散地で、ここで粉に挽かれ江戸市中に供給されたことからこの名が付きました。
いわゆる製粉業者の町だった訳で、蕎麦を挽くのに用いられた石臼が無数にあり 、
その名残から石臼塚が作られました。代表的な所は中野坂上「宝仙寺」にございます。
「蕎麦禁制の石碑」
烏山の「称往院」なるお寺に有るのがこの石碑。
蕎麦店の屋号に多い「庵」のルーツと言われる「道光院」があった寺である。
信州生まれの庵主の打つ蕎麦が評判を呼び、寺だか蕎麦屋だか判らなくなる程の繁盛。
その為、親寺である称往院で行われる勤行を怠るようになり、戒めの意味で門前に蕎麦禁制の碑が建てられた。
「麺類杜氏職寄子の墓」
麺類杜氏職(めんるいとじしょく)とは蕎麦打ちの職人のことで、昔はこの蕎麦打ちの渡り職人が多かった。
腕自慢の彼らは当然自負心が強く、それによって身を滅ぼす者も数多くいた様です。
無縁仏のような彼らを供養する為に建てられたのがこの墓で、谷中の「長明寺」というお寺にある。
この墓は、「美男」という職人斡旋業(今で言う蕎麦職人の調理師会)の会長である田中徳三郎氏が建てたものです。
このほかにも蕎麦に関わるお地蔵様が各地に見られる他、全国に広げても史跡・名所となっているところがたくさんある。古来より、お蕎麦が庶民の食の代表的存在であった証であろうと思われます。