2015年1月 第128話 そば切りの起源の新発見
江戸で蕎麦が流行った訳は前回お話を致しましたが、流行る為には江戸に蕎麦が入ってくる必要が有ります。
今回はその江戸への伝承について書いてみることに致します。
ここで話している蕎麦は麺状になった「そば切り」の事で、この言葉の初見はこれまで「近江多賀神社」の慈性なる僧侶が慶長十九年(1614)に記したとされていたが、平成四年長野の郷土史家・関保男氏が木曽郡大桑村の「定勝寺」の古文書から見つけた記事によって塗り換えられた。それは天正二年(1574)の修復工事の折の寄進台帳にある「振舞いそば切り」と言う記録であり、現時点での最古の例となりました。
さて前年の天正元年は甲斐の武田信玄が上洛途中に没した年、八年後天正八年には西から織田信長・南からは徳川家康が甲斐に攻め込み、武田を滅亡させる訳でありますが、この際信濃・甲斐と言うそば切りの里を大勢が通過し必然的にそば切りに出会う機会があったと思われます。
ちなみに武田家終焉の地「天目山」はそば切り発祥の地ともされているそうで、元禄年間に尾張徳川家家臣、天野信景が書いた書物には「そば切りは甲州より始まる、天目山参詣の時そばを練りて蒸篭とせし、その後うどんを学びてそば切りと成すと信州人語りし」となっているそうである。話を進めて天正十八年になると徳川家康が関東へ国替えとなり江戸の入府、寒村だった江戸の隆盛が始まる事となるが、家臣と共に江戸勃興の労働力として失職した下級武士や荒廃した田畑から逃れた農民が江戸に集まる事となった。人が集まればそこに商売が発生するのは自然の法則で、飲食店もその一つ、蕎麦もその中に入って行く事となった訳です。
平成四年のそば切りの起源の新しい発見は、「江戸蕎麦」が甲斐の国と言うそば切り発祥の地を土壌とし、武田信玄という有力武将の死を発端にいただき、それを攻め滅ぼし、後に国替えの憂き目を乗り越え江戸幕府を開く徳川家康の存在を踏み台にして生まれてきた流れに物語性を与える気が致します。
戦国乱世から太平の御世への移り変わりが、一つの地方食であった「そば切り」を日本食の代表の一つに押し上げていくと言う物語は推論では有るが誠に面白いと思われる次第です。もし「そば切り」発祥が東北だったら、武田信玄が天下を取っていたら、幕府が江戸でなかったら「江戸の蕎麦」は勿論のこと、蕎麦が日本食の代表の一つになったかどうか、我々が蕎麦屋を商えていたかどうかも疑問符となるように思えます。