2019年9月 第146話 七十五
お蕎麦には「二八」「三たて」「十割」「三色」「二十三本」「八寸」等々、数にまつわる話が多く見られます。今回はその中の一つのお話です。信州地方には「そばは七十五日経つと旧に返る」という言い伝えがあります。これはそばが播種から75日で刈取りできる位、実りが早いと言う意味です。
「人の噂も七十五日」と言う様に「七十五日」は、それほど長くない期間の例えとして使われてきた象徴的な日数なのです。もう一つ七十五が使われる例に「初物七十五日」という言葉があります。
初物を食べると長生きできる日数が七十五と言う意味だそうで、初鰹に代表される江戸っ子の「初物好き」が生み出した俗信で、初物を食べると七十五日(ちょっとだけでも)寿命が延びると言う迷信である。さて話を戻して「そばの七十五日」であるが、品種や栽培時期などによって多少変わるものの、他の穀物に比べて圧倒的に収穫までの期間が短いそばは荒地や火山灰地にもよく育つとして飢餓に備える意味でも栽培が奨励されてきた穀物であった。奈良時代には、日照りで米が穫れない時に急場をしのぐ救荒作物に指定された記録もある。
そば栽培に適した自然条件は温暖な地域の冷涼な気候と言われている。現在一般的には夏そば(概ね6月下旬から7月に収穫)で70~85日、秋そば(8月下旬以降の収穫)で80~90日が栽培期間とされている。当店の本年の「夏の新そば」のスタートは4月初旬に播種された「宮古島産」を7月から、「秋の新そば」のスタートは5月が播種の時期となっている北海道産を8月末からスタートしました。
さて江戸庶民の初物好きの春の代表「鰹」に対し、秋の代表は「新そば」で、こちらも大変な人気だったようです。
年越し蕎麦の縁起かつぎで知られる様に、元々そばには細く長くと言う長寿を連想させるイメージがある訳ですが、これに初物七十五日の俗信が加わるとなれば、なおさら新そばが珍重された事は容易に理解できるはずです。十八世紀末の天明期には、「新蕎麦に又生延る長命寺」という川柳も詠まれております。現代人にとってはこんな俗信・迷信は無意味だろうが、走りのそばを今か今かと首を長くして待っていた江戸の人々の心情は実感として理解できるのではないでしょうか。新そばを待ちこがれる思いは「蕎麦の花咲かぬうちから言ひ合はせ」という古川柳にも切々と詠まれております。