2021年10月 第156話 下り酒
緊急事態宣言の解除で長く続いた酒類の販売自粛も終わり、時間と人数制限は有るもののやっと楽しそうにお酒を飲まれるお客様を見る事が出来るようになりました。これからの年末年始はいつにも増してお酒を飲む機会が多くなる月です。江戸時代、ここ江戸は市民一人が毎日一食は蕎麦を食べる「蕎麦食い」の都でしたが、お酒もまたもの凄い量が消費され、「箱根からこっちには下戸と化け物はいない」とまで言われた「のんべい」の都でもありました。元禄時代(17世紀後半)の資料によると一人当たりの年間飲酒量は何と54ℓだったと言われています。なにしろ、朝は仕事前の景気付けの茶碗酒一杯に始まり、昼飯時に軽く一杯、帰宅して一杯、寝酒に一杯と節々に飲む訳だから酒量もかなりになるはずである。「酒屋の通い、払えどもまた生じ」や「四つ前に寝ると酒屋は叱られる」等の川柳からはつけを払ってもまたすぐつけが生まれ、夜10時を過ぎても客足の絶えない居酒屋の様子がうかがわれます。
これだけ飲むと庶民の「江戸わずらい(地域特有病)」は肝硬変にでもなりそうなのであるが、江戸わずらいは脚気以外には伝えられていません。どうもこの時代の酒は今の酒よりずっと薄かったようです。江戸初期には仕込み水が少なく酒自体が濃厚でしたが、中期後期になると酒屋が儲け重視で希釈して売り捌いていたようです。一説では「江戸の酒は酒臭い水だ」と言われるほどだったとか。
さてこの時代も今同様、評判の酒やブランドが有ったようです。江戸で珍重されたのは伊丹や灘や伏見など関西からの「下り酒」でした。最盛期には四斗樽(72ℓ)で120万樽が入ってきた下り酒の多くは甘口の諸白(もろはく)と呼ばれる清酒で、にごり酒だった江戸の地酒に比べて洗練された上品な口当たりで江戸の人々を虜にしたらしい。江戸では「甘口」と書いて「うまくち」と読ませていた位、飲食で甘口が好まれていたのである。時代的にも甘みは貴重品で少なかったため生理学的にも人々は甘みを欲したのであろう。手前味噌になるかもしれませんが、上品さや口当たりの良さは甘口の特徴で、そば汁も例外ではないと思います。さて、清酒である下り酒は元々は淡麗辛口だと想像いたしますが、どうも船での輸送中に熟成が進み甘口に変化していたようです。産地によっても風味は異なり江戸時代に刊行された「銘酒づくし」なるランキング本によると、東の大関は「伊丹の剣菱」関脇は「伊丹の男山」、西の大関は「伊丹の老松」関脇が「伊丹の桜岡」と記されています。桜岡以外は今も残る銘柄です。現代では毎年ボジョレーヌーボーの解禁が世界的にニュースになりますが、江戸時代には新酒運搬船が関西からの速さを競い人々の関心を集めていたそうです。寛政2年の記録では西宮から江戸まで58時間で到着した廻船の記録が残っています。通常は5日程度とされていますがこの新酒運搬船の3着以内の新酒の値段がその年の基準価格となることから江戸の酒飲みには一大関心事であったそうです。古今東西、人々の酒に対する執着は普遍であるようです。
当店も約10種の各地の地酒をレトロラベル一合瓶で販売しております。話のタネにいかがでしょうか。