トップ > 店主の独り言 > 2024年2月 第186話 ルーツ

hitorigoto_main.jpg

2024年2月 第186話 ルーツ

一覧へ戻る

 当家芝大門更科布屋のルーツは屋号からもお分かりの通り蕎麦屋ではなく「布屋」です。
日本の多くの農村でされているように農間余業として作られた地元の特産である「信濃布」と言う反物を信州から行商する布商人(半農家)でした。行商は特定の店舗を持たず商品を顧客がいるところへ運び販売をする小売業ですが、江戸時代は一般人の移動には制限があったので各国の通行には許可が必要でした。しかし行商人が運んでくる荷物は自国で生産されていない生活必需品や軍事転用可能品が主だったため比較的行商人は移動が容易だった様です。信濃の語源は一説にはシナノキに因んだものと言われる様に古代の信濃にはシナノキがたくさん自生していました。信濃布というのは本来このシナノキの繊維からつくる粗くて丈夫な布で、皮をさらして細く糸に割いて織った布でした。布目はあらく艷があり、色はやや赤く黒みがある布でした,その他にも信濃では畠で栽培する麻からつくる高級な布も生産されており、信濃の年貢は古代以来、輸送の便利もあってかほとんどが軽量の布で納められていたと文献には記されています。余談ですが当時の衣類の主役は麻でしたが、綿花の栽培が本格化すると吸湿性に優れ、肌触りも良く、染色しやすい木綿が一気に主役となり各地の主要産業となりました。しかし木綿の値段は高く、着物一着分の1反が600~800文と言われています。
1文約30円とすると18000円~24000円で江戸の庶民には高額でした。さてそれではご先祖様はどうやって江戸に通ったのだろうか、出身地更級郡は千曲川以西かつ犀川以南および信州新町日原西・信州新町信級・松代町西寺尾・松代町牧島・松代町小島田の辺りであり、長野県内では北国街道を千曲川沿いに軽井沢に下り、群馬県内では中山道を碓氷川に沿って碓氷峠を越えて松井田- 安中- 高崎を経て本庄- 熊谷 - 大宮- 板橋- 江戸と言った道程ではなかっただろうか。江戸時代、中山道は東海道と比べ陸路が多いため渡場で止められることが少なく、安定して通ることができたので比較的多くの旅人が往来しました。しかし東海道と比べて伊勢湾の渡しや大井川のような大河の渡しなど危険な所が少ないとはいえ、険しい坂や激流の河川が旅人を阻み、特に碓氷峠は難所中の難所で野盗や追剥もいたと聞き及びます。少しオーバーに言えば江戸への行商は命がけでもあったように思います。そんな環境の中、普段より腕に覚えた蕎麦打ちの技を生かして安全で安定した生業として江戸定住の蕎麦屋へ転身して行ったのだと思います。