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2016年2月 第131話 増上寺

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昨年この紙面で書いた「芝大神宮とめ組の喧嘩」の話を読まれた増上寺の執事の方から増上寺についても興味深いお話をお聞きする事ができました。地元の2大ランドマーク「芝大神宮と増上寺」、片手落ちでは申し訳ないと今月は増上寺の歴史をひも解きます。

浄土宗の東の要として開山約620年を数える、大本山増上寺は徳川家の菩提寺としてつとに有名である。

増上寺と徳川家の関係は、1590年に秀吉に旧領駿府から江戸への領地換えを命じられた家康が江戸城へ向う途中、

ある寺の前で馬が動かなくなり、そこで出会った増上寺住職・源誉存応(げんよぞんのう)との縁が始まりと言われている。

1598年の江戸城拡張工事の際に現在のこの地を徳川より寄進されそれまでの紀尾井町・麹町辺りから移転、その境内の広さは約25万坪有ったそうである。旧東京市街地に残る最古の建造物である正面の「三解脱門」は「貪り」「怒り」「愚かさ」と言う3つの煩悩を解脱する意味を持つ国の重要文化財である。


元々徳川家の菩提寺と言えば家康公を奉った東照宮は別格として、この増上寺だけであったが、家康・秀忠・家光と3代の将軍に政治・学問ブレインとして仕えた天海僧正の影響で上野寛永寺も途中から菩提寺に加えられたそうである。
家康はその遺言で江戸での葬儀は増上寺で行うことを命じ、二代秀忠は増上寺に葬られているが、

後から菩提寺になった寛永寺に四代家綱、五代綱吉が相次いで葬られた為、菩提寺の本家たる増上寺は幕府に猛抗議をし、それ以後埋葬について調整が計られる様になったと言われている。

結局、日光東照宮に葬られた家康と家光、最後の将軍として徳川家の菩提寺に埋葬されることを辞退した慶喜を除く12人の将軍の内、6人が増上寺、6人が寛永寺の葬られ宿敵同士の寺は傷み分けとなった。

増上寺には、2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重(8代吉宗の長男)・12代家慶・14代家茂(篤姫の養子)の6人の将軍とその正室が葬られている。公武合体で江戸に下った皇女和宮は家茂の正室である。隣接する芝東照宮は、元は家康を祀る増上寺安国殿であったが、神仏分離令の折に独立し神社化された。


この一帯の芝公園は2月末には梅園として4月には桜の花見の名所として賑わう事を重ねてご案内する次第です。

当地の町名「芝大門」や地下鉄の駅名「大門」に使われている大門(だいもん)は、増上寺の総門のことを指します。

昨年来この大門の所有者の問題がTVでも取りざたされたが、いまだ解決せずオリンピックに向かって門の修繕に地元は苦慮している次第です